今更聞けない百合ヒストリー~独断と偏見による百合概論と歴史について、GWなので本気出して考えてみた~大正・昭和編

立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花――

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今更聞けない百合ヒストリー~独断と偏見による百合概論と歴史について、GWなので本気出して考えてみた~大正・昭和編
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立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花――

古来日本では女性を表す表現として使われてきたこの言葉から転じて、今日わたしたちの文化的活活動に深く根差すこととなった「百合」。
昨今ではボーイズラブ作品の台頭もあり、百合を嗜むことへの偏見や勘違いも大分緩和されてきた昨今。
しかしそれでもまだ百合というジャンルはBLに比べては一般的ではないのも事実です。

それは何故なのか?そもそも百合とは何なのか?

本日は私、永田たまの独断と偏見に満ち満ちた「百合」を語りたいと思います。

尚、本気で独断に満ちていますので、異論反論は巻き起こることは想定内ですが、私のメンタルはクソザコなので、ご意見やお怒りはすべて、掲載判断をした編集部へお願いします。

百合の歴史~宝塚歌劇団と吉屋信子氏、Sという概念~


1914年、大正3年4月。

西日本貿易の要でもある兵庫の地にて、一つの劇団が旗揚げ公演を行いました。
宝塚歌劇団。
今日では知らぬ人はいないといわれる、日本を代表する劇団の一つ。
そして、「女の園」の代名詞となったその劇団の創設のはじまりは、温泉の余興…客寄せとしてのスタートでした。



まだまだレジャーの中心は男性であったその時代において、温泉で羽を伸ばす男性や家族連れへちょっとした歌や芝居を披露する少女たちの存在は、今日の「宝塚音楽学校」でイメージする姿とはちょっと違うかもしれません。
各地で評判を聞きつけた興行師、自治体を中心として同じような「少女歌劇団」が乱立。
しかし元祖としてに人気を伸ばした宝塚歌劇団は、わずか5年の間に東京公演を実現させ、それを足掛かりに併設女学校の認可を受けることになります。

日本各地から選ばれた美しく才能のある少女たちが、寄宿生活を行い男性の介在しない厳格な上下関係を築く。

そんな漫画のような現実に後押しされたある作品が、宝塚音楽歌劇学校が成立した翌年の1920年に大ヒットします。
日本においての百合創作物の始まりともいえる吉屋信子氏著「花物語」です。


「花物語」(amazonより)
当時はまだ日本には珍しかった、女性たちだけを中心に紡がれる物語。
大衆雑誌という存在が花開いたその時代、「少女画報」で連載を開始したその作品は、少女を描く天才であった画家・中原淳一氏の挿絵人気も高まって人気連載となっていきます。


<中原版 絶版>
花をモチーフにした7人の少女のオムニバスとして描かれるその物語の、古い家制度からひととき解放された少女たちが選ぶ、男性の存在しない友愛関係は「S」(エス:シスター)と呼ばれ、
時には異性との愛よりも同格、むしろ高尚なものとして描かれるようになります。

西洋文化に触れ、自立した職業婦人は誕生してはいたもののまだ社会の風当たりの強い時代。
男性主権である家庭に庇護され縛られる少女たちの束の間の自由と反抗。
それがSという秘めた関係性として受け入れられ、物語を飛び出し現実世界でも「S」的関係を築くことがちょっとしたブームになりました。

宝塚歌劇団が「現実としての少女集合体」の始まりとすれば、吉屋信子の生み出した「S」という概念は今日まで続く「創作として、ファンタジーとしての少女集合体」の始まりと言えます。

BLや男性同性愛の話になると「衆道」等が引き合いに出され、日本においては男性の同性愛は歴史がある、という話になります。
もちろん平安鎌倉江戸とさかのぼれば、女性同士の同性愛もなかったとは言い切れません。
しかし大正という元号のこのたった数年が、百合文化の誕生と休息な発展の重要な歴史的ターニングポイントであることは間違いがありませんし、そういった意味では「百合」は「薔薇」と称される男性同性愛よりも随分と歴史が浅いことは事実かと思われます。

S:シスターという非日常


さて、ここで先ほど仮に名付けさせていただいた、女学校における「現実的少女集合体」と、吉屋信子氏を祖とする「ファンタジー:理想的少女集合体」。この二点の差異について論じたいと思います。

「理想的少女集合体」に憧れた彼女たちが親しい友人や上級生、下級生と「S」となることが流行したこの時代ですが、殆どの学校でこの「S」という制度はたった数年で廃れて行くことになります。
(一部地域には現在までその文化が引き継がれている地域がありますがここでは一旦おいておきます)

1910年ごろからひっそりと始まったこのムーブメントは、自身も同性愛的傾向を持っていた吉屋氏によって完全に開花し、広く一般に知られました。
吉屋信子氏前期の創作の中では、「S」は精神性を重視し、男性との性愛のような肉体の結びつきを必要とせず、精神のみでその高みを超越しうる結びつきをもつものとして描きます。
性行為に対しての教育や知識も今よりも未熟であったその時代、多くの女性にとって未知で恐ろしいものであった「性交」(男性に組しかれるもの)を必要としない関係性は美しく甘美に捉えられたことでしょう。
(後期の吉屋氏作品には「コレはもう…」という描写があったりしますが、この場合どこからどこまでが、という議論が必要なので今日は割愛します)

つまり多くの少女たちにとって「肉体を伴わない高貴な関係」として受け入れられたSは、肉欲と性愛と伴う女性同性愛「レズビアン」と明確に差別化が可能だったと言えます。
結婚し、家に入り、子供(跡取り)を作ることとそが女性の本懐とされていた時代。
セックスなんかしなくても、子供なんか作らなくても、私たちはずっと深く結びついていられる!という少女たちの無言の抵抗……それが「S」でもあったのです。
男性同士の同性愛の始祖である「衆道」が武士道という主従や寺に養育される稚児という「従属」と切り離せない歴史をたどったこととは対照的に、「女性の従属を求める男性社会への反抗の同志」として、Sは発展していきます。
それは「家社会への従属」という予定された未来、閉塞した日常へのささやかな抵抗……束の間許された非日常だったのでしょう。

Sの衰退と冬の時代


では何故、廃れていったのか。

その理由はいくつかの仮説を立てることができます。

仮説1:卒業とともに連絡を取れなくなる時限性
当時は今よりも通信の手段が発達してはいません。加えて不安定な世情、経済理由もあり文通も今ほど気軽なものではありませんでした。
女学校を途中で退学し、親の決めた縁談に従って嫁入りすることが普通だとされていた時代。
どんなに心を通じ合わせた相手であっても、親の意に反して結婚を拒否するということは殆どあり得ませんでした。
そのため常に「いつか突然この関係が終わってしまう」という儚さと苦しみを孕んだ感情が、互いに親しくなればなるほど縺れていく……というのも珍しくなかったようです。
創作の世界では「私たちはずっと一緒」でめでたしで終わる世界ですが、当時の現実の女生徒たちにはそれは遠い遠い残酷な夢でした。

仮説2:女学校という閉鎖空間故の人間関係の狭さ
当時の流行だったとは言え、「S」という関係性を大っぴらに推奨していた学校は殆どなく、むしろ教師たちにとっては眉を顰める大衆小説との見方もありました。
この時代の女学校は一部を除いて「嫁入り学校」としての役割を期待されており、教師は大事な娘さんを預かっている以上、そういった世俗に染めることはとんでもない!という考え方もあったのです。
「秘め事」として発生したSも、そういった狭い学校社会においてはすぐに周知となり、引き裂かれることもあったでしょう。

仮説3:1930年代における女性同士の心中事件の多発
卒業=別離を表す当時のSにおいて、その現実から逃避するには当然の帰結として心中という手法がとられるのは自明の理でしょう。おそらくこの事実が一番、Sを表部隊から引っ込めた、直接的原因です。
逆説的に言えば、これさえなければ「S」は世間から非難されずおおらかに育まれたはずです。
当時の文献や投書欄をひも解くに、おおむねの大人たちは少女同士のS的な観念を「女学生の間だけなら」(結婚後は苦労するものなのだから)と、容認していたことがうかがえます。
おそらくは宝塚歌劇団の影響もあり、女性同士が若いうちに親密になることは「美しいこと」ととらえられていたのです。
ですが「生き死に」が絡むとなれば話は別です。

女學生らいふ

他にも色々な考察は可能ですが、そうして徐々に下火になっていった「S」という概念。
次第に時代の流れと共に「レズビアン(女性的同性愛。当時は老嬢と揶揄され、女学生でないにも関わらず女性同士の関係を卒業できないものとしてSと区別された)」と混同され、衆合されていきます。

この「S」という概念が「百合」へと成長を遂げ日の目を見るには、実に昭和をまたぐ必要があったのです……。

男性の性消費物「レズもの」としての命名「百合」


昭和を一足飛びに平成に行く前に、静かに進行していった昭和(戦後)の百合的文化について、少しだけ触れていきたいと思います。

昭和の大衆文化の大きな点として、まず文化全体が「性」を語る、「性」を消費することに寛容になったことがあげられます。
所謂「ビニ本」と呼ばれる性愛をテーマにした雑誌や、日活ロマンポルノ等の「性をテーマにした表現」が一気に花開いた昭和後半、当然の流れとしてそれまで大きく語られることのなかった「同性愛」をテーマにした情報雑誌が創刊されることになります。
「薔薇族」。おそらく同性愛者ではない人でもその名前を聞いたことのある伝説の雑誌は、男性同性愛者のための本として創刊され、今日までその名前を残しています。
実は「百合」という表現が初めて使われたのはこの「薔薇族」なのです。
初期の薔薇族には「百合族」というコーナーがあり、女性同性愛者の投稿文などを掲載していました。
男性同士の性愛を「赤い薔薇」と例えた名物編集長が自ら命名したという「百合」は、男性同士の肉のぶつかり合いのような愛とは違う、女性同士の清廉なのに濃密に噎せ返るようなその関係性を純白の百合に例えたのでしょう。

「レズビアン」ではなく「百合」と関係性を表現することは、隠語を好む日本人の性質にもフィットしたのか、このころから各所で「百合」という表現がよく見かけられるようになります。

命名者の意図はおそらく、年齢に関係なく女性同性愛を示す言葉として「百合」を定着させたかったのでしょう。しかしその後日活ロマンポルノにも「セーラー服 百合族」という人気作が生まれたことによりこのころには「女学生なら百合、そうでなければレズビアン」のようなざっくりとしたあいまいな区分けがされるようになりました。
(ちなみにこの作品は純粋な百合作品ではなく、男性との絡みも多いので、ご視聴の際は注意されたし)

昭和のS的世界観作品代表 「櫻の園」


さて、百合文化花開く平成の前、昭和の時代の女性同士の友愛や恋愛を描いた作品にはどうなったでしょうか。


吉田秋生の漫画作品「櫻の園」(amazonより)
「BananaFish」で危険かつ美しい男同士の愛を描き一躍有名作家となった作家の初期佳作です。
女子高の演劇部に所属する女生徒たちの切なく繊細な友情をテーマにしたオムニバス。

のちに映画化され高い評価を得たこの作品ですが、制服、女性同士の葛藤、友情よりも聊か重い感情の発露など、百合要素は十分にあるものの主役には彼氏がいて性行為をすべきか否かで悩んでいたり、他校の男子生徒との関係にキャーキャー言ったりと、いたって普通の「いまどきの女子生徒」が主題でした。唯一、女子生徒に恋慕している役柄の子も、「男子が怖いが故にかっこいい女の先輩に代替を求める」という背景があり、これはよくも悪くも世の中の男性が「女性同士の恋愛」に対して抱きがちな「宝塚イメージ」の具現でありました。

精神性を描く作品ではありますが、百合的要素……というよりは少女期の不安定で繊細な感情を描き切った名作と言えます。

とは言え映像作品も漫画作品も傑作には間違いはありません。


映像版「櫻の園」(amazonより)

集英社コバルト文庫の創刊とライトノベルの始祖・新井素子


さて同じ頃、文壇に颯爽と現れた一人の天才少女が世を賑わせます。
当時高校生でありながらその新しい文体と着想により、かのSFの大御所星新一の寵愛を受けることになる新井素子氏です。


「あたしの中の……」(amazonより)
SFをサイエンス・フィクションではなく「サイエンス・ファンタジー」「すこしふしぎ」として描くその感性と、今日のライトノベルに連綿と受け継がれる「あたし」で始まる、現代の少女としての口語を主とした語り口のミスマッチは、その後10年以上にわたり文壇で「あれは文学ではない」「いや新しい文学の始まりだ」と論じられるほどでした。

しかしここで彼女の作品を出版するにあたり、一つの問題が立ち上がります。
純文学でもない。SFとも言い切れない。私小説とも違うその才能が属するべき場所が。当時の文壇に無かったのです。
そして丁度、「雑誌Cobalt」としてリニューアルされた「小説ジュニア」という少女向け文芸誌にて、彼女の才能は発揮されることとなります。
余談ではありますが当時のコバルトには久美沙織、藤本ひとみ、氷室冴子、赤川次郎といった現代では「大作家」と言っても差し支えない方々が名を連ねていました。今となっては信じたくないことですが、彼ら、彼女らの作品を「女子供が読むものだ」と文壇から弾いていた時期が、確かに日本につい最近まであったのです。

<現在はウェブマガジンとして名を遺すコバルト>

ともあれ。

雑誌Cobaltにて発表の場を得た新井氏は、まるで水を得た魚かのように意欲作を多く発表していきます。

この時代「少女向け雑誌」で経験を積み、その世界に触れたことが、彼女の百合才能を開花させたことに一役買っていると筆者は考えます。

大学に進学した彼女はその後、意欲的な本格SFを多数執筆。
そして多くの作品で「女性同士の共依存的友情」を描き始めることとなります。


「あなたにここにいてほしい」(amazonより)
「あなたにここにいて欲しい」では、超能力を持つ美しい親友と、その親友に寄り添い続ける主人公の自立と再生。
「扉を開けて」では、孤独な異能力者の少女が同じく「社会の異物」として扱われる戦士姫との、次元を超えた友愛を。
そして後年、ついに日本SF大賞を受賞するに至った名作「チグリスとユーフラテス」。「子孫をつなぐ」という役割を果たせなかった老婆二人の物語は、筆者的百合の最高境地でした。オススメ。

それは文壇という、当時はまだ男性によって牛耳られていた世界へ対する、高校生の少女の無言の反抗だったのかもしれません。
そう、まるで吉屋信子の作品に共感した少女たちの「父権社会」への反発と同じく。

いかがでしたでしょうか。
独断と偏見による百合好きによる大正~昭和の百合発展論。

次回はいよいよ、平成の百合について語っていきたいと思います。
今しばらくお付き合いくださいませ、ね?

《永田たま》

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