弱冠22歳で家業である花札屋を継いだ山内氏。成長のため、様々な事業に参入していきます。そしてその多くが失敗に終わったことはよく知られています。
山内氏は1950年代にトランプの販売を始め、ディズニーとライセンス契約を結び、ミッキーマウスなどのキャラクターの絵柄がついたトランプを製造して爆発的な人気を呼んだ。 ―中略― 山内氏はその後、食品やタクシーから「ラブホテル」まで、いくつかの事業に乗り出した。これらの事業のすべてが不採算となって失敗した後、山内氏は任天堂の中心を再びゲーム事業に置くこととした。
任天堂が引き継ぐ「山内溥氏の魂」とは(WIRED) 2013年9月25日
例えば、任天堂の主力商品がトランプだったころ、多角経営に乗り出しダイヤ交通株式会社というタクシー会社や、三近食品という食品会社を設立。しかし、どちらも上手くいかなく経営から撤退。多角経営に失敗した頃、任天堂本体もトランプの売れ行きが落ちてきて経営が危うくなっていきます。
任天堂元社長 故山内溥氏 素晴らしい失敗だらけの経営者(newsdig) 2013年9月20日
特にゲームボーイに始まる携帯ゲーム機は、携帯できるコンピューターとして最初期の製品として評価する声もあります。
当コラムでは、じつは携帯ゲーム機のヒットこそが最大の功績だ、という視点から語ることにします。あまり語られていませんが、山内氏こそが「手のひらの中にコンピューターを持ち込む」ことを誰よりも早く実践し、一般化した、世界初の人物だと考えるからです。
あまり語られていない「山内溥氏が世界に影響を与えたもの」(日経ビジネス) 2013年9月26日
また、台数が見込めるゲーム機が半導体市場もけん引したとロイターは伝えています。
任天堂が最初にファミコンを開発したときには、半導体開発に協力したのはリコー一社のみだったが、日の丸半導体メーカーはその後ゲーム機向けプロセッサーの開発受注に躍起になる。一時はゲーム機が、DRAM市場で韓国・台湾勢の後塵を拝した半導体各社の頼みの綱だった。
任天堂の山内氏と日の丸半導体(ロイター) 2013年9月24日
多くのヒット商品を見出したことに加えて、山内氏は確かな人物眼でも知られます。引退に際して、後継社長には42歳の、しかも生え抜きではない、岩田聡氏を選びました。
「これ」と見込んだ部下には絶対の信頼を置き、業績を左右する重責を与えた。同社の製品開発を支え、1997年に56歳で亡くなった天才的ゲームクリエーター、横井軍平氏に対する信頼は厚く「マジックハンド」を横井氏が考案したときはすぐに商品化のゴーサインを出した。
【評伝】山内溥・任天堂前社長 「ファミコン」で飛躍の土台作る(産経新聞) 2013年9月20日
「いったい何を基準にして任天堂に必要な人を選ぶのかと言えば、果たしてその人がソフト体質を持っているか否か。実際に接してみると、この人はハードの人、この人は体質的にソフトに順応できる人というのがわかってくるんですよ。僕自身がソフト体質の経営者だから、そういうことがわかるんじゃなかろうかと自分では思っているわけです」
任天堂・山内溥氏が遺した言葉 「イズム」守れるか(日本経済新聞) 2013年9月17日
岩田聡氏と宮本茂氏は現在の任天堂の経営者です。岩田社長は、山内溥氏に乞われて関連会社から任天堂に転職、42歳で社長に抜擢され、任天堂の急成長期を率いています。宮本茂氏はマリオやピクミンの生みの親であり、ゲームクリエーションの世界で(日本で、ではなく、文字通り世界で)“神様”と呼ばれる人です。こうした人たちを見出し、チャンスを与え、その才能を開花する舞台を提供したのが山内溥氏なのです。
山内溥氏の「人と組織」(Chikirinの日記) 2013年9月23日
過去のインタビューや取材記事も公開されています。
・ゲームはまだ終わらない 任天堂・故山内溥相談役を偲ぶ(日経ビジネス)
・任天堂の山内溥前社長、コメントでしのぶ(日本経済新聞)
名言集も。
・任天堂 山内語録(ホコタテブログ)
・山内溥の名言一覧(名言DB)
座右の銘は「失意泰然、得意冷然」だった。
・失意泰然、得意冷然 ~ 山内溥