■本心? それとも見栄?──「見えた!」

失敗という結末は変わらなくとも、意味のある敗北も存在します。クリアの糸口が見えない時、様々な手段で挑んでは失敗し、その都度別の手段を模索する。いわゆる「トライ&エラー」は、ゲーム攻略においても有効な手段です。
そして失敗を重ねることで、勝機や攻略ルートを掴む瞬間があります。この時の失敗は、決して単なるミスではなく、むしろ勝利への第1歩。そんな時は、ネガティブな言葉ではなく、「見えた!」と力強く叫ぶことも。ひと足早い勝利宣言とも言えるでしょう。
……ただし、「見えた!」と声を上げた時、本当の意味で見えたのかどうか、定かではありません。閃きや気づきを得たと思っても、単なる勘違いで終わることも多々。「見えた!」は、見えていない場合も多いのです。
個人的な感覚では「見えた!」を4~5回叫ぶと、ようやく本当に見えてくるといった塩梅です。見えてないけど、見えたと思いたい。そんな願望から、思わず先走ってしまうのです。
ちなみに、同様の失敗台詞で「分かった!」もあります。もちろん、分かってなんかいません。
■お手上げ? それとも抗議!?──「これ以上どうしろと?」

トライ&エラーを繰り返し、少しずつ正解に近づいていく。その積み上げは、ゲームの醍醐味とも言えます。その積み上げが限界まで達した時、立ちはだかった壁を見事に超え、クリアという栄冠を掴む……かどうかは、時と場合によります。
どれだけ考え尽くし、研鑽を重ね、コントローラーの操作を最適化しても、努力が報われずに終わる。そんな苦い結末に打ちひしがれた時、口をついて出てしまうのが「これ以上どうしろと?」という失敗台詞です。
誰かがクリアしている以上、努力が足りないのは自明の理。それが分かっているからこそ、自分の無力さに打ちひしがれ、じゃあどうすればいいんだと叫びたくもなります。
そして、この叫びの裏には「あとどれだけ努力すれば、超えられるのか」という、答えのない問いかけも潜んでいます。クリアまでに必要な努力は決して測れず、だからこそクリアに価値と意味があるのでしょう。
今日も測れない努力を積み上げながら、失敗台詞を幾度も口にするはず。その先に手が届くと信じて。それは、ゲーマーの誰もが持つ、成功への近道に他なりません。